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アニメ「魔女の旅々」第1話がいまいちハマらなかった。

 2020年10月より放送開始「魔女の旅々」は白石定規の小説を原作にしたアニメだ。つい先日、最終話が公開された。

 本作は、世界中を冒険することを夢見る主人公が、魔女になるところから始まる(魔女でないと冒険は出来ないらしい)。魔女の冒険。かなり興味をそそられる題材だと思った。

 しかしその第一話。僕は主人公に全く感情移入することができなかった。

 今回は、「魔女の旅々」第1話において、主人公への共感が生まれなかった原因を分析する。

第一話のあらすじ

 まず、第一話のあらすじについて。

 魔女となり世界中を冒険することを夢見る主人公は、幼い頃からの努力の甲斐もあり史上最年少の14歳で試験に合格、見習い魔女となる。

 一人前の魔女になるには他の魔女に弟子入りする必要があり、街に住む魔女たちのもとを訪れるが、若く才能のある主人公への嫉妬から門前払いされる。

 森の奥に住み着いたと噂の怪しげな魔女に一縷の望みを託し弟子入りを志願すると快諾され、喜ぶ主人公。

 しかし、魔法の稽古をつけてくれるどころか、食事を作ったり、お使いを頼まれたり、雑用を押し付けられるばかりの主人公。不満を口にする主人公の様子を見て、ある日突然魔女は「試験をする」と告げる。

 試験の名のもと、主人公に対し一方的に魔法で嬲る魔女。抵抗むなしく、主人公は魔法で吹き飛ばされてしまう。

 滅茶苦茶な態度をとってきた魔女に対し、不満が爆発して泣き出す主人公。なだめる魔女に「わたしの気持ちなんて分からないくせに」と、見習い合格までの努力や他の魔女たちの仕打ちなど含めた不満をぶつける。

 しかし、魔女の横暴な態度は、実は主人公の両親の依頼によるもので、旅に出る前に失敗や挫折を味わう必要がある、との思いから生まれた結果だった。

 理不尽な仕打ちに対し忍耐強く辛抱した主人公に対し、「辛いときは無理に我慢しなくてもいいのよ」と諭す魔女。彼女の真意を知った主人公と魔女は打ち解け、一年後の別れの時、共に修練に励んだ主人公は、一人前の魔女として認められることが出来た。彼女の旅はここから始まる。

問題点:主人公の心情を伝えきれていない各シーンの描写不足

 第一話で鍵となるのは、魔女の「辛いときは我慢しなくていい」という台詞。魔女の真のねらいであり、主人公の感情を解き放って物語の山場をつくる上でも重要なシーンである。

 ここで必要なのは、周囲の仕打ちにより、主人公の不満がたまっていく描写だ。これがないと、主人公の「辛い」という気持ちを視聴者が共有できない。すると、魔女の「我慢しないで」という言葉による主人公の感情の高ぶりにも同調することが出来ず、気分が盛り上がらないまま第一話が終わってしまう。

 つまり、第一話の構成上、視聴者に主人公が「可哀想だ」と同情を煽るようなシーンを描く必要があるのだが、本作はこれが十分に出来ていないと感じた。

描くべきだったポイント

 第一話において、主人公が抱く不満は大きく2つ。

  1. 魔女見習いになるための努力を認めてくれなかった街の魔女
  2. ろくな指導無しに雑用を押し付けてくる魔女

 この2つが、理不尽な魔法試験によって爆発したのである。

 つまり、これら主人公が受けた理不尽やそこから生まれた負の感情をしっかり描写していればよい。それが不完全だった。

 まず1.街の魔女の描写。見習い魔女となった主人公が街に住む魔女の家に行き、玄関越しに話始めるのだが、弟子入りを匂わせた途端、思い切りドアを閉められる。ポカンとする主人公。その後ほかの魔女を訪ねても全く相手にされない。

 主人公が話している途中で急に扉を閉めてしまうシーンは迫力はあるものの、あまりに唐突すぎて見ていても悔しさや怒りは湧いてこない。肝心の主人公自身も、困ってはいるものの強く悔しがったりする表情は見られない。

 仮に、主人公が魔女見習いになるため必死に努力した場面や、門前払いを食らう主人公を憐れむ街の人々がいたりすれば、少し印象は違っただろう。

 

 次に2.不真面目な魔女。上記のとおり、さまざまな雑用を命令され、それをこなす主人公だが、不満を表に出すこともなく、ただ淡々と雑務に励むばかり。たしかに雑用ばかりやらされているものの、その雑用も特にハードなわけでもなく一般的な内容である。主人公が掃除やお使いで大変な苦労をする、といった描写も特にない。

 魔女も、雑用を押し付けはするものの物腰が柔らかいので、そこに強い不快感は生じない。主人公をモノのように扱うだとか、断崖絶壁に生える花を取ってこいなどと無茶な命令をするでもないので、視聴者は魔女に対する憎しみが生まれることもない。

 雑用に終始する期間が一か月続いた、と主人公がモノローグで補足を入れるが、視聴者としては、その時間を共有することは難しい。本人は辛かったかもしれないが、それらは絵として表れていないものである。限られた放送時間の内で視聴者の共感を得るには、印象が薄かった。

 

 1,2の点の描写は、それぞれが描くべきシーンのポイントや、視聴者の気持ちを動かすためのアイデアを練り切れていない。そのため、終盤の展開までに主人公への感情移入が出来ず、何の引きもないまま第一話が終わっていくように感じてしまった。

おわりに

 詰め込んだ内容で駆け足の第一話だったが、台本の練りこみ不足が感じられた。題材は面白さを秘めているはずなので、二話以降の巻き返しに期待したい。

 

 

 

 

もこうのポケモン実況の面白さはどこから来るのか。

 YouTubeポケモンの対戦動画を配信するゲーム実況者もこう。ポケットモンスターソード・シールド発売から活動の勢いを増し、2020年5月にはYouTubeのチャンネル登録者数が100万人を突破した。

 かつてニコニコ動画でも、同じくポケモンの対戦動画で一躍有名になった彼が今、再び精力的にポケモンの実況を行っている。今回は、彼のポケモン対戦動画の魅力を紐解いていく。

わかりやすく、魅力的なコンセプト

 もこうのポケモン対戦動画には、ニコニコ動画の時代から一貫しているコンセプトがある。対戦で誰もが使う強いポケモンではなく、対人戦ではあまりスポットが当てられないようなポケモン(いわゆるマイナーポケモンを主軸に据えて戦うのが彼のスタイルだ。

 強力な相手を、自分なりの工夫を凝らして打ち倒す様は少年マンガ的展開で、見ていてワクワクするし、スカッとした快感を味わえる。このわかりやすく魅力的なコンセプトが、彼のポケモン実況における大きな柱だ。

 彼のこのスタイルは、YouTubeというメディアにおける動画の質にも相乗効果を発揮している。

 YouTubeのゲーム実況動画はニコニコ動画とは異なり、Part○○と番号を振られたシリーズ形式の動画を継続して視聴するのではなく、その時視聴している動画の関連動画を、動画の題名とサムネイルを見て面白そうなものを選び視聴するような、より単発的に動画を選んで見る傾向にある。

 その傾向を顕著に表す例として、ある実況者があるゲームの実況動画数十本の内、その同一ゲームタイトルの動画の中一本だけ、異様な再生数を取る動画の存在がある。

 かつてニコニコ動画では、多少のばらつきがあったとしても、1つの動画シリーズの内、一番再生回数を取るのはPart1の動画だった。平均視聴回数が10万回くらいの10本のシリーズの内、Part6だけが100万再生を超えるみたいなことはあり得ない現象だった。

 つまり、YouTubeでは動画1つ1つに明確なコンセプト(視聴者の興味を引く内容)が必要とされるようになったのだ。

明確なコンセプトが生み出す動画の構造

 もこうのポケモン対戦動画の構成は以下の通りだ。

 まず、冒頭に今回フューチャーするポケモンの紹介。そのポケモンの対戦環境下における境遇や、今回取る戦術、能力値の調整、仮想敵、他のポケモンとの連携など、さまざまな説明をグッと凝縮し、テンポよく説明していく。

 これにより、なぜ今回そのポケモンを使うのか、どのように活躍させるのかが明確に提示される。動画の見どころは何なのか、何を基準にして楽しめばいいのか、視聴者が理解した上で対戦を見ることが出来るのだ。

 次に対戦相手とポケモンを見せ合い、3匹の戦うポケモンを選出する場面。ここでも、対戦相手のポケモンをざっくり分析しつつ、ある程度の選出理由を添えてくれる。

 そして対戦時。もこうは戦いの中で生まれる喜びや怒りといった感情をストレートに表現する。時には(いつも)暴言も厭わない。同時に、彼が対戦中に行う相手との駆け引きや、なぜその技を選択したのかなど、彼の思考も言葉にして説明してくれるポケモン対戦における前提知識や補足情報も、字幕できっちり補完する。

 対戦中の思考をしっかり言葉にして実況をすることは当然難しい。しかしもこうは、こと対戦実況において抜群の実況力を持っている。これに関しては、ポケモン剣盾の初期の動画と現在のものを見比べてほしいのだが、剣盾の実況開始以来、この言語化力がどんどん伸びていることが実感できるはずだ。

 視聴者は、勝負の駆け引きを実況者と共有し、その成功や失敗も、もこうの豊かな感情表現を通じて一緒になって喜んだり悔しがったりできる。

 ポケモン対戦を自分ではせずに、動画だけで楽しむような人でも、その動画における主役のポケモンが環境に対してどのような力を発揮するのかを説明してくれるので、対戦における事前知識がなくても、ポケモン対戦を楽しむことができる。

 もこうのポケモン対戦動画は、動画の楽しみ方をしっかり提示している点が、YouTubeのゲーム実況として優れた点だろう。

まとめ

 もこうが再びポケモン実況で輝きを取り戻したのは、彼が元々持っていた性質、動画の質、YouTubeでの動画の視聴のされ方など、さまざまな要因が絡み合ってのことだ。

 しかし、動画のテンポを重視した喋りや細かなカット編集、読み合いに必要な細かな知識を補完する字幕の挿入など、動画づくりへの惜しみない努力があるからこその結果だろう。彼のポケモン対戦を、今後も心待ちにしている。

「シン・ゴジラ」が目指した新たなゴジラ像。

 2016年公開、庵野総監督による「シン・ゴジラ」を今更ながら鑑賞した。「ゴジラ」シリーズを見るのはこれが初めてだったが、「ウルトラマン」シリーズによって形成された、僕の、特撮作品に登場するやられ役としての怪獣に対するイメージは、この「シン・ゴジラ」によってぶち壊されることになった。

 本編鑑賞後に見た初代ゴジラも併せて、「シン・ゴジラ」が現代の日本人に与えたであろう圧倒的説得力ゆえの恐怖を共有したい。

現代日本を襲うゴジラ

 ゴジラは突如として海中に現れ、海岸から上陸し、都内へと侵攻していく。当然、日本政府はこれに対応しようとするのだが、何もできずにゴジラの侵入を許してしまう。

 何もできなかった=何もしなかったということではない。要は、ゴジラを駆逐する決議をするための会議をするための会議をするための会議をするのに、政府は悪戦苦闘するのだ。

 何か1つのことを決めるために、何重もの関門をくぐり抜けなければならない。これは現代の日本社会や政府機構に対する皮肉というより、今の日本にゴジラのような巨大な敵性生物が現われたらこういう風になるんじゃないか、という製作者の純粋な想像を形にした結果だと思う。

 初めて陸に上がったゴジラは、私たちが知っている一般的なゴジラのイメージからは程遠く、もっと生物的なグロテスクさを有したデザインである。この不気味ないで立ちの生物が、車、道路、家屋、マンションを蹴散らしながら進んでいく様は、淡々とした演出も相まって効果的に恐怖を煽る。

いつもと変わらない光景

 ゴジラは一回目の上陸では、特に能動的な破壊活動は行わない(それでも十分街は被害を受けているが)。一度海に戻り、その後再び出現する。

 僕が恐怖を覚えたのは、一回目のゴジラ侵攻後、何もなかったかのように再び日常生活を送る人々が映し出された時だ。

 電車が走り、大量の通学・通勤者で町中が溢れる様子を、長めの尺で切り取る。これは明らかに、ゴジラが出現した後も、変わらない生活を送る人々を描写している。

 直前まで、得体の知れない生物が街を破壊し、臨時ニュースが飛び交っていたというのにこの有り様だ。あまりに当たり前のように普通の生活に戻っていく人々はとても気味が悪い。この映画の観客として、その行為に共感できないからだ。

 しかし、実際の僕たちはどうだろうか。災害大国日本。中国や北朝鮮など、近隣の国の武力侵攻など、様々な警報が日常的に鳴り響く私たち日本国民は、たとえ朝警報が鳴り響いたとしても、当たり前のように登校・出社し、「やっぱり何もなかったな」なんて冗談話に昇華している。

 日々の生活を送る私たちの前に大きな脅威が立ち上った時、果たして真っ当な態度を示すことが出来るのだろうか。

焼けついた亡骸

 東京の街を破壊しつくしたゴジラも、登場人物たちの決死の努力、行動により、活動を停止させることが出来た。

 しかし、ゴジラの生命活動を完全に止めたのではなく、あくまで一時的な勝利に過ぎなかった。彼らはゴジラという脅威を内包した生活を送らざるを得ないのだ。

 そして劇中最後に映し出されるのは、ゴジラの尻尾に焼けついたまっ黒の人間の形をした何か。初代「ゴジラ」は、水爆の実験によって目覚めた生物であり、核爆弾に対する強いメッセージ性を持つ。「シン・ゴジラ」最後の映像は、それを想起するのに十分なインパクトを持っている。

シン・ゴジラ」がもたらした恐怖

 「シン・ゴジラ」を鑑賞して最も強く残ったのは、さまざまなこわさだった。

 巨大な怪獣によって蹂躙されるリアルな東京。そこに映し出される私たち国民の生活。圧倒的な力を持つゴジラ(この映画を見た後で、「内閣総辞職ビーム」なんて茶化しは絶対出来ない)。この映画は、多様なこわさを見せてくれた。

 おそらく、1954年の公開当時、初代「ゴジラ」を見た日本人は、同じように恐怖を覚えたのではないか。「シン・ゴジラ」は、過去に「ゴジラ」がもたらした恐怖を、日本人に再び見せつけたのだ。

 そして、ゴジラのもつ恐怖を、本当の意味で味わうことができる日本人として、「シン・ゴジラ」を鑑賞できたことはとても幸運なことだと思う。

 

 

笑い声を足す意義。

 バラエティやお笑い番組では、演者やスタッフ以外の笑い声や歓声が聞こえる。これは観覧席に座るお客さんの声だ。

 生放送ではない番組だと、このお客さんの声が編集で足されていることが多い。

 笑い声を足す行為には、いくつかの目的があると思われる。

 例えば、

  1. お客さんのウケがよくなかったので足す
  2. 視聴者に笑いどころを伝える
  3. 静かな場面に音を足す

 など。

 僕が気になったのは、お笑い芸人が漫才やコントを披露する番組だ。

 編集で笑い声が足されている場合、追加する笑いの量やトーン、タイミングのさじ加減は当然編集者の手に委ねられる。

 そのため、視聴者である僕は、ある種加工済みのお笑いを見ることになるのだ。

 僕が好きなお笑いコンビ、サンドウィッチマンがいる。M1グランプリ2007年王者の実力派だ。彼らのツアーライブと、番組で行った漫才と、それぞれの映像があるので見比べてみてほしい。

youtu.be

youtu.be

 上が番組で披露されたもので、下がツアーライブの映像だ。

 僕が違和感を覚えたのは、パソコンの電源ボタンを探すくだり。富澤の「もっと右、もっと」との声に誘導され伊達がパソコンの電源ボタンを探し、「あ~そこそこ」「いや背中かいてもらってるのか」と突っ込む。

 ツアーの場合だと、伊達が「いや背中かいてもらってるのか」と言い切る前に笑いが起きはじめ、徐々に笑いの量が大きくなっていく。

 一方番組の映像では、伊達がセリフを言い始めたくらいで一人の笑い声が入り、突っ込みの途中で、そのくだりの内でマックスの笑いの量になる。徐々に笑いが増えるのではなく、スイッチで切り替わったかのように笑い声がパッと増えるのだ。

 これはとても細かい違和感だが、多くのライブ映像をYouTubeにアップロードしているサンドウィッチマンだからこそ、観客の生のリアクションとの差が気になったのだと思う。

 贔屓の芸人がいる方なら、似たような経験をしたことがある人も多いのではないか。

 「このくだり、そこまで笑うようなところじゃないんだけどなあ」と、編集で付け足された笑いの量が気になってしまうこと、ないだろうか。

 これらはあくまで僕の感覚に基づいた感想に過ぎない。編集によって、視聴者に笑うポイントを分かりやすく提示することに意義はあると思う。

 しかし、間や雰囲気が大切なお笑いにおいて、漫才やコントをしている当事者以外の手によって、その空間に加工がなされていることは、負の側面が見られてしまうのも確かである。

「ゼロからはじめる大人のための将棋入門」を読んでみて。

 はてなブログのトップに、著者の遠山雄亮プロ自身による本書の記事があった。気になったので早速購入。

 

  僕は、アナログゲームが苦手だ。将棋はもちろん、オセロ、UNO、大富豪なんかもへたくそである。

 勝つためにはどうすればいいか。その手段・筋道を論理的に考えるのが出来ないから、僕はこの手のゲームに弱い。

 一方で、ゲームそのものは、デジタルやアナログに限らず好きだ。種目に限らず、その道の達人同士がしのぎを削る対戦は、動画を見るだけでも楽しい。

 しかし、当然のことながら、彼らの交わしている駆け引きを理解している方が、観戦していて面白いに決まっている。

 将棋は、NHKなどで試合が放送されている。プロの戦いをより深く楽しむ、また自分自身も、将棋を指せるようになりたいという思いから、この本を買うに至った。

感想

 本書では、将棋の盤上で繰り広げられている駆け引きを、その初歩的なレベルに遡って紐解いてくれる。

 駒の陣形や、詰め将棋の設問といった内容を、それぞれ章立てし、独立させて解説するのではなく、対局の流れの中で、そういった要素がどのような形で内包されているのかを示してくれる。

 書き方も、最初のうちは専門用語を使わず、平易な言葉で説明してくれるのでとっつきやすい。

 あくまで入門書なので、これを読んだからといって、プロレベルの読み合いを理解できるかはわからない。

 しかし、将棋における駆け引きの原理的な部分は十分押さえることができると思う。

 ボリュームは控えめなので、すぐ読み終えられると思う。Kindle版なら気軽に購入できるので、ぜひ読んでみてください。

 

仕事を半年で辞めたぼくから、内定をもらったあなたへ。

 仕事を退職した。大卒1年目、入社して約半年の決断だった。

 昔は、新社会人のほとんどは入社3年以内に退職すると聞いた時、なんでやねんと思っていた。せっかく入ったのにもったいなくね?と。

 そんな自分がその当事者となってしまった。人生何が起きるかわからないものである。そんなわけで、来年新社会人となる人に、新入社員が気を付けるべき3つのことをまとめた。参考になれば幸いである。

限度を超えた仕事量はこなさない

 新入社員に対して、会社の人間は期待を寄せる。あなたを教育する上司は、それなりの期待をもってあなたを迎えるはずだ。

 仕事のイロハを、張り切ってあなたに教えてくれるだろう。あなたが仕事に対する熱意を見せれば、教育にもさらに熱が入るかもしれない。

 ここで重要なのは、自分がこなすことのできる仕事の量を、しっかりアピールすることである。

 仕事には終わりがない。やってもやっても、やるべきことは存在する。だから、ある程度作業量に目処を立てなければ、無限に仕事をしなくてはいけなくなってしまう。

 上司は当然、あなたの仕事ぶりをみて、あなたに振り分ける仕事の量を決める。ここであなたが、下手に無理をしてしまうと、「こいつはこの量はこなせるんだな」と思われ、他人からみたあなたの仕事のキャパがどんどん膨らんでいってしまう。

 この状態が続くと、許容量を超えた仕事を任され続け、作業を処理しきれなくなり、ミスが発生する。ミスを叱責され、気分が落ち込み、仕事のクオリティが落ちる。そしてまたミスが生まれ…と、負の連鎖が始まってしまうのだ。

 だから、仕事は無理を続けてはいけない。あなたの能力にあった量を、あなたのペースでこなすことが重要なのだ。

楽をする

 仕事をしてお金をもらっているのだから、手を抜いて適当な仕事をしろとは言わない。

 しかし、あなたは仕事が終われば、家に帰りご飯を作り、部屋の掃除をしてだらだらとテレビを見る必要がある。あなたはあなたの生活を守らなければいけない。仕事から帰って来た時点でヘロヘロの状態だと、それは不可能だ。体力を温存する必要がある。

 効率の良いやり方が最適解とは限らない。僕は郊外のショッピングモールで勤務していたのだが、常々「従業員はお客の3倍のスピードで移動しろ」と言われていた。

 確かにそうすれば、移動に費やす時間を3分の1に圧縮できる。だが、3倍のスピードで動けば、当たり前だがその分疲れるのだ。

 会社は当然、彼らの業務がより効率よく、円滑に進むよう、あなたにさまざまな要求をするだろう。しかし、彼らはあなたの充実した日々の生活まで保障する気はないのだ。あなたの平穏な暮らしを守れるのは、あなただけである

敵は作らない

 会社の上司、同僚、その他の従業員は、ともに仕事をする仲間だ。仲良くする必要は無いと思うが、敵に回してしまうと、厄介なことになる。

 社会に出てみてわかることはたくさんある。僕は、大人というものが、ここまでろくでもないものだとは思ってもいなかった。

 もちろん、みんながみんな酷かったとは言わないが、人とのコミュニケーションの取り方がまるで中学生のような大人が少なくなかった。現場を取り仕切るマネージャークラスの人間ですらその体たらくだった。

 そういった人々と付き合っていかなけらばならないのは、正直仕事内容どうこう以上にしんどかった。が、適当にあしらっていると、当然いい目では見られない。パワハラモラハラなんて、当たり前に存在する。

 とにかく、新入社員のうちは、反撃しようにも立場が弱すぎる。下手に敵を作らない方が賢い立ち回りだろう。

まとめ

 これらの話は、その人の人間性とか性格にも大きく左右されることなので、まるまる参考にしてほしいとはいいづらい。新卒社会人が、半年で仕事を辞めた今、ふりかえって思ったことを誇張無しに書いたので、教訓めいた話として流してもらえればよいかなと思う。

 来年から社会人の方は、自分のペースで頑張ってください!無理はしちゃだめだよ!

ひろゆきに噛みつくTwitter民たち。

 西村博之2ちゃんねるの開設者である。

 彼のTwitterには、ほぼ毎回誰かが噛みつく。噛みつくが、ひろゆきは全く動じない。輩を振り払い、即反撃する。相手の論理の穴を正確に突く。

 ひろゆきに噛みつくTwitter民は、彼と意見を戦わせたいのではないと思う。頭のよさそうな奴の話に文句をつけたいだけである。

 Twitterで発信できる情報量は、1ツイートにつき140字。この中に考えていることすべてを詰め込むには無理がある。

 もし、ひろゆきの意見に疑問を感じた時、まず取るべき行動は質問のはずだ。彼の意見を十分に理解してから、反論なりするべきである。

 しかし、輩はすぐに噛みつこうとし、あっという間に返り討ちにされてしまう。彼らがぶつけようとする意見の質以前の問題である。

 使い方に気をつけなければ、間抜けな行いが全世界に披露されてしまうTwitterSNSで、バカはすぐバレる。