群体知能

一個体のささやかな主張

「シン・ゴジラ」が目指した新たなゴジラ像。

 2016年公開、庵野総監督による「シン・ゴジラ」を今更ながら鑑賞した。「ゴジラ」シリーズを見るのはこれが初めてだったが、「ウルトラマン」シリーズによって形成された、僕の、特撮作品に登場するやられ役としての怪獣に対するイメージは、この「シン・ゴジラ」によってぶち壊されることになった。

 本編鑑賞後に見た初代ゴジラも併せて、「シン・ゴジラ」が現代の日本人に与えたであろう圧倒的説得力ゆえの恐怖を共有したい。

現代日本を襲うゴジラ

 ゴジラは突如として海中に現れ、海岸から上陸し、都内へと侵攻していく。当然、日本政府はこれに対応しようとするのだが、何もできずにゴジラの侵入を許してしまう。

 何もできなかった=何もしなかったということではない。要は、ゴジラを駆逐する決議をするための会議をするための会議をするための会議をするのに、政府は悪戦苦闘するのだ。

 何か1つのことを決めるために、何重もの関門をくぐり抜けなければならない。これは現代の日本社会や政府機構に対する皮肉というより、今の日本にゴジラのような巨大な敵性生物が現われたらこういう風になるんじゃないか、という製作者の純粋な想像を形にした結果だと思う。

 初めて陸に上がったゴジラは、私たちが知っている一般的なゴジラのイメージからは程遠く、もっと生物的なグロテスクさを有したデザインである。この不気味ないで立ちの生物が、車、道路、家屋、マンションを蹴散らしながら進んでいく様は、淡々とした演出も相まって効果的に恐怖を煽る。

いつもと変わらない光景

 ゴジラは一回目の上陸では、特に能動的な破壊活動は行わない(それでも十分街は被害を受けているが)。一度海に戻り、その後再び出現する。

 僕が恐怖を覚えたのは、一回目のゴジラ侵攻後、何もなかったかのように再び日常生活を送る人々が映し出された時だ。

 電車が走り、大量の通学・通勤者で町中が溢れる様子を、長めの尺で切り取る。これは明らかに、ゴジラが出現した後も、変わらない生活を送る人々を描写している。

 直前まで、得体の知れない生物が街を破壊し、臨時ニュースが飛び交っていたというのにこの有り様だ。あまりに当たり前のように普通の生活に戻っていく人々はとても気味が悪い。この映画の観客として、その行為に共感できないからだ。

 しかし、実際の僕たちはどうだろうか。災害大国日本。中国や北朝鮮など、近隣の国の武力侵攻など、様々な警報が日常的に鳴り響く私たち日本国民は、たとえ朝警報が鳴り響いたとしても、当たり前のように登校・出社し、「やっぱり何もなかったな」なんて冗談話に昇華している。

 日々の生活を送る私たちの前に大きな脅威が立ち上った時、果たして真っ当な態度を示すことが出来るのだろうか。

焼けついた亡骸

 東京の街を破壊しつくしたゴジラも、登場人物たちの決死の努力、行動により、活動を停止させることが出来た。

 しかし、ゴジラの生命活動を完全に止めたのではなく、あくまで一時的な勝利に過ぎなかった。彼らはゴジラという脅威を内包した生活を送らざるを得ないのだ。

 そして劇中最後に映し出されるのは、ゴジラの尻尾に焼けついたまっ黒の人間の形をした何か。初代「ゴジラ」は、水爆の実験によって目覚めた生物であり、核爆弾に対する強いメッセージ性を持つ。「シン・ゴジラ」最後の映像は、それを想起するのに十分なインパクトを持っている。

シン・ゴジラ」がもたらした恐怖

 「シン・ゴジラ」を鑑賞して最も強く残ったのは、さまざまなこわさだった。

 巨大な怪獣によって蹂躙されるリアルな東京。そこに映し出される私たち国民の生活。圧倒的な力を持つゴジラ(この映画を見た後で、「内閣総辞職ビーム」なんて茶化しは絶対出来ない)。この映画は、多様なこわさを見せてくれた。

 おそらく、1954年の公開当時、初代「ゴジラ」を見た日本人は、同じように恐怖を覚えたのではないか。「シン・ゴジラ」は、過去に「ゴジラ」がもたらした恐怖を、日本人に再び見せつけたのだ。

 そして、ゴジラのもつ恐怖を、本当の意味で味わうことができる日本人として、「シン・ゴジラ」を鑑賞できたことはとても幸運なことだと思う。