群体知能

一個体のささやかな主張

ツイートする→ポストする

ブログにしたためるほどでもない思いつき

Twitterの名称がXに変わり、それに伴ってツイートすることを「ポストする」と呼ぶことになった。が、これは明らかな劣化といえる。

なぜなら、「ツイートする」はTwitter上で発言すること以外の意味を持たないが、「ポストする」はそれ以外の意味でも使われる多義的な言葉だからだ。

 

「君たちはどう生きるか」難解さ・賛否両論の要因

 私はこの記事を「君たちはどう生きるか」を2回観た後に書いている。1回目は公開初日、そして2度目はこの記事を公開した日に観た。

 1回目の鑑賞時は、この映画を観た多くの人と同じように、「これは一体どのような作品なのだろう」と頭を捻りながら席に座っていた。

 そもそも、映画でも、小説でも、全く前情報なしに作品と対峙した経験がある人など、どのくらいいるのだろうか。小説であれば背表紙にあらすじが書いてあるし、映画だって主演が誰かくらい知ったうえで観に行くはずだ。しかし、今回の「君たちはどう生きるか」に関しては、ほんとうのほんとうに、世界中のだれもが作品の情報をまったく持たずに丸腰で映画館に向かったのだ。現代においてこんな経験、空前絶後なのではないだろうか。

 君たちはどう生きるか」に対する感想に「よくわからなかった」が多いのは、当然のはずだ。なぜなら、われわれは物語の舞台も、あらすじも、主人公も、全くなにも知らずに映画を観た。映画の内容を把握するために不可欠な基本情報すら持たない状態で映画を観たのだ。

 「君たちはどう生きるか」で宮崎駿は何を語るのか?それに集中する前に、観客はまず登場人物や舞台設定などの基本的な情報を読み取らなければいけなかった。そのような状態で、制作者の意図の理解まで手が回るわけもない。

 しかし、何の前情報もなしに映画を鑑賞したわれわれに、未知の情報が洪水のように押し寄せてきた挙句、情報量が処理能力を超えて、何がなんだかわけがわからなくなってしまった。

 小説ならば自分のペースで読み進めることができるし、内容につまずいたら前のページに戻ることができる。しかし、映画はそうはいかない。巻き戻しもできない。

 つまり、繰り返しにはなるが、君たちはどう生きるか」が難解な理由。それは「全く前情報もなしに映画館へ行った」からだ。考えてみれば、当たり前のことである。

 

 本作の複雑な構成は意図的なものであると考えていたが、どうやらそうではないらしい。公開前情報を一切伏せたのはおそらくプロデューサー判断で、作品の特性と併せた「仕掛け」として、世に送り出そうとしたのだろう。この仕掛けが、本作の評価を分けた要因になっている。1度本作を鑑賞して「よくわからなかった」と感じた人は、ぜひもう一度劇場に足を運んでほしい。「君たちはどう生きるか」は、その価値がある素晴らしい映画だ。

 

 これは、きわめて王道のファンタジーである。

 

open.spotify.com

 

 この映画を観たことを、忘れたくない。

生きるのがつらい人へ、シンプルな対処法

生きるのしんどいですか?

社会というか人の世は生きていて辛いものです。安定した心の状態が常に保てればいいのにな、そう思うことは多々あると思います。

 

今回書くのはその「心の状態を安定させる」方法です。めっちゃシンプルです。

1日10分、軽いウォーキングをしてください。それでだいぶ楽に日常生活を送れるようになります。

 

「いやいや、たかがウォーキングしたぐらいでどうにかなるなら苦労しねえよ」

と思ったでしょう。でも、人間って案外単純なんです。しっかりウォーキングを続ければ、ちゃんと効果でます。

 

で、そのウォーキングなんですけど、「ある方法」を守らないと効果ないです。それを説明しますね。

 

まず、足を地面に降ろすとき、かかとからつけます。つま先が地面に最後につくように歩いて下さい。

次、踏み出した側の足、そちらに体重がのっかりますよね。その体重移動の時、かかとから脚、脚から腰、腰から背中、背中から頭、頭から頭のてっぺん(脳天)まで、踏みしめた地面から伝わってくるエネルギー(反発する力ですね。スピリチュアルな話ではありません)が脳天まで届く感覚を掴んでください。

 

この感覚を最初に掴むまでは、自分の部屋とかですごくゆっくりなスピードで歩く練習をしてみてください。練習中やウォーキング中は、その感覚を感じることだけに集中してください。絶対に余計なことを考えながらやったらだめです。以上が心の状態を安定させるウォーキング方です。

 

さて、このウォーキングをする目的ですが、それは「体の重心のバランスを整えること」です。人間はそれぞれ体の構造に個体差がありますから、それによってどのような重心バランスかは人によってことなります。それをウォーキングによって矯正します。

 

「なんで体のバランスを整えると精神が安定すんの?」と思うでしょう。そこで、修行僧のことを思い浮かべてください。あの人たちって、座禅しますよね。心を落ち着けるためにじーっと座りつづける。あれ、体の重心を整えるためにやってるんじゃね?と思ったわけです。

 

先ほど書きましたが、人はそれぞれ体つきが異なります。そうなると、それぞれ「体の得意な使い方、苦手な使い方」も違ってきますよね。得意な使い方は、もちろんよく使う動作となり、それを繰り返しするでしょう。でも逆に、自分の苦手な動作は、自然と避けるようになります。だって、それをやってもいい結果が出ませんから。

 

え、「それが一体何?」って?つまり、人は体つきによって得意なこと、苦手なことが違うんです。それは肉体的な動きを伴う行動だけでなく、頭を使って解決すべき問題の対処方法にも影響します。例えば、細かい動作が得意な人なら、計画とかもきっちり立てるでしょう。

 

このウォーキングは、体全体に力が均等に加えられるようにするためのトレーニングです。つまり、体を得意不得意なく、バランスよく使えるようになるための方法なんですね。

 

「こんなので心が安定するとは思えん…」と思われるのは、まあ最もなんですが、効果はしっかりあります。だまされたと思って1か月くらい続けてみてください。大事なのは、余計なことを考えず、地面から返ってくる反発力がかかとから脳天まで伝わっていくのをしっかり感じることです。

 

頑張って挑戦してみてください。それでは

「あなた」も「わたし」も藤井風 ― damn

 リリースからおよそ2か月が経とうとしている藤井風の「damn」。曲はとてもかっこいい。が、歌詞が一度聞いただけで理解できるほど素直なつくりではない。恋愛を歌った?と、歌詞をなんとなく眺めた時は思ったが、それはおそらくミスリードによるもので、後半の英語歌詞を見ると歌詞中に登場する「あなた」は「him = 彼」であることから恋愛がテーマではないと思われる。

 じゃあ何について歌詞が書かれたのか?もちろん個人的な解釈だが、ある仮設によってわりと筋の通った解釈が成せると思い、残しておく。

歌詞およびMV解釈

 まず注目したいのは「damn」のMV。藤井風はミュージシャンに扮しており、どこかの酒の席で歌声を披露している。が、客は歌唱に対してどこか冷めた態度である。客の表情にひよった藤井風は、平気なふりしてステージから捌けていくが、裏の楽屋では青ざめた表情をしている。洗面所で顔を洗い、鏡を見て不敵な表情をつくる藤井風。ここまでが歌詞の一番が終わって間奏を含めたくらいだ。

 つづいて一番の歌詞を見て行こう。

 

 まさかこんなに媚びてまうとは

 まさかこんなに惚れてまうとは

 そいでこんなに拗らせるとはな

 

 これは「誰か」が「誰か」に対して媚びたり惚れたりしているのだが、MVに登場する藤井風が「演じているミュージシャン」の色恋のことではなく、それを演じている「藤井風自身」と「誰か」の関係性についてだと思われる。おそらく、「藤井風」と「藤井風のファン」の関係性ではないだろうか。

 藤井風がファンに媚びる……とは聞こえが悪いが、ファンが藤井風に惚れてまってるのは間違いない。「拗らせる」は藤井風とファンとの関係が「拗れた」という意味だと思うが、おそらく藤井風が思い描いていた「ファンとの関係性」とは異なる現状を「拗れた」と表現しているのではないか。

 

 別にどうにでもなりゃいいのに

 別におれにはカンケーないのに

 まさかこんなに捉われるとはな

 

 「ファンとの拗れた関係性」とは何か?それは藤井風についたファンが「楽曲に対するファン」なのではなく「新進気鋭で才覚溢れる上に顔もスタイルもいい藤井風というすごいアーティストのファン」という事実から生じる、音楽を届けたい自分と「アーティスト・藤井風」を期待しているファンとのギャップだと思われる。

 ファンが夢想する自身の「天才イケメンアーティスト像」は、藤井風にとってどうにでもなりゃいいし彼にはカンケーないことだし、しかし、そのイメージに彼はこんなに捉われているらしい。

 

 だんだん遠くなったあなたへ

 (全部全部おれのせい)

 だんだん離れてったあなたへ

 (責めてみても仕方ねえ)

 だんだんバカになったこのおれ

 どうすりゃいい

 どうすればいい

 あぁ幸せってどんなだったけな

 ……覚えてないや

 

 「だんだん遠くなったあなたへ」「だんだん離れてったあなたへ」と、ここでいう「あなた」は一見恋愛の相手のように受け取れるが、後述の「あなた=him(彼)」という歌詞から、恋愛の相手と解釈するのは不適当。(いやいや、その考え方は前時代的ではないか、という声もあるだろうが、ここでは「あなた」をミスリードと考えるので論点がずれてしまう)

 藤井風から遠ざかっていった人物は藤井風自身、つまり彼に対してファンが抱いているイメージ「天才イケメンすごアーティスト」だ。才能あふれる若者とはいえ、彼も普通の二十代である。

 

 (全部全部おれのせい)(責めてみても仕方ねえ)は、そういったイメージを作り上げたのは自分自身であるという懺悔に近い。(責めてみても仕方ねえ)の「誰を」責めるのか、それは「ファン」ではないだろうか。

 藤井風の「天才」像や、天才由来の「天真爛漫さ」を演出したのは彼自身や彼をプロデュースしている人たちであり、ファンはその「天才」像に無邪気に心酔しているだけである。彼の届けたい「楽曲」や「メッセージ」が、そういったフィルターを通して誤解されたまま受け取られるのは鬱陶しいことだ。「そんなもん(イメージ)はどうにでもなれ、おれにはカンケ―ねえ」と言いたくなるが、ファンを責めても仕方ない。(全部全部おれのぜい)なのだ。

 加えて、この二つの歌詞は括弧で閉じられている。その上、MVを見るとその歌詞の部分で、ステージ上にいる藤井風は歌うのをやめている。「だんだん遠くなった(離れてった)あなたへ」との意味のつながりはおかしくないので普通に歌っても問題はない。……のにわざわざ歌詞やMVで演出がなされているということは、含みがあることを示唆しているとみて間違いないだろう。

 

 「だんだんバカになったこのおれ どうすりゃいい どうすればいい」

 「バカになった」はいろいろな解釈ができると思われる。例えば、今まで記した通りファンに担ぎ上げられて「バカになった=自分はすごい存在なんだと勘違いするようになった」と受け取ることもできる。しかし、それだとこのエントリーで行ってきた歌詞解釈とはズレがある。

 なので、今回は「ファンがイメージする藤井風は気取ってなくて、天真爛漫で、博愛主義で……LOVEとかPEACEとかばかり言うおめでたい奴になってしまった」という解釈をした。だいぶひねくれた解釈だが、筆者はこの曲がそもそもひねくれている(いたずらに複雑な構造)だと感じたので、よしとする。

 そうやって膨れ上がっていく本人とはかけ離れたイメージに対して「どうすりゃいい どうすればいい」とお手上げ状態である。「幸せってどんなだったけな」は、藤井風が考える「幸せ」の解釈がファンが広範にわたり解釈するので、藤井風の中での定義のぐらつきが感じられる……というのはかなり攻めた解釈かもしれない。単純に、彼の今の状況が音楽家として「幸せ」と呼べるものかわからない(名前や曲は売れ、世間に藤井風は知れ渡ったが、意図していない享受のされ方をしている)、という意味かもしれない。

 

 どけ、そこどけおれが通る

 やめ、それやめ虫唾走る

 だめ、もうだめぜんぶ終る

 

・「どけ」とは、藤井風に抱かれている「イメージ」に対して、邪魔だ、おれ(=イメージやバイアスを取り払った本来の藤井風)が通る

・「やめ」とは、歪んだ解釈をするファンに対して

・「だめ、もうだめぜんぶ終る」前の二つの歌詞を含め、かなり強いメッセージが込められている。もうすべてひっくり返してしまいたい、というような藤井風の思いが表れていると感じた。

 

 分かりきったことやん、今さら

 完ペキとか無理やん、ハナから

 ……別に何も期待してないけどな

 

 これらの歌詞が内包するフラストレーションの矛先はすこしわかりづらい。先ほどまでのファンに対する不満とは若干異なる毛色の含みが感じられる。MV上で、ステージを降りライブ会場の客席でめちゃくちゃな粗相をして会場を飛び出していく様子を見ると、これはミュージシャンの雇い主に対する不満のように思える。つまり、藤井風のプロデューサーとか、マネージャーとか(音楽的なプロデューサーではない)である。

 「世間から投げかけられる目線に対し、理想的なアーティスト像を演じ続けるのは無理」ということだ。

 

 だんだん好きになったあなたへ

 (ヘンな気持ち誰のせい)

 だんだん赤くなった青さへ

 (責めてみても仕方ねえ)

 だんだんアホになったこのおれ

 どうすりゃいい

 どうすればいい

 あぁ幸せって何色だったけな

 ……覚えてないや

 

 「だんだん好きになったあなたへ(ヘンな気持ちだれのせい)」は、「あなた」は藤井風ではなくファンと思われる。藤井風を応援してくれているファンは、藤井風にとって理想的な応援のされ方とはズレている(楽曲よりも藤井風という青年のファン)が、ファンをそういう気持ちにさせている自分の男性としての魅力には自覚的だ、ということではないだろうか。(「あなた」の解釈が曲中で別の人物に変わる一貫性のなさは筆者も承知している)

 「だんだん赤くなった青さへ」は、解釈を思いつかない。申し訳ない。なので、話題をMVに移そう。二番のサビが終わると、交通道路で踊っていた場面から藤井風の回想シーンに移る。おそらく、回想シーンへ移る時に赤く暗転していることから、車に轢かれたのだろう。

 

 全て流すつもりだったのにどうした?

 何もかも捨ててくと決めてどうした?

 明日なんか来ると思わずにどうした?

 

 ここで藤井風の過去の楽曲の歌詞とMVのワンシーンが映される。これは「う〇ち」の比喩でもあり、彼の過去の行いの振り返りでもある。

 「全て流すつもりだった」は、藤井風に対する否定的な言葉を受け流す、という意味だと思われる。「何もかも捨ててく」は、藤井風というアーティストとして世に出る以上、彼が今まで生きてきた人生とは異なる人物として歩んでいかなければならないのに、「本来の自分と今の藤井風とのイメージのギャップ」で苦しんでいる場合か?という自問自答のように聞こえる。「明日なんか来ると思わずにどうした?」は、うじうじ悩んでいる自分に対する叱咤激励だろう。これらのフレーズは、元の曲で使われていた文脈から離れ、再構成されている。

 

 全部まだまだこれからだから

 いつかあんたに辿り着くから

 

 これは今まで解釈を踏まえると、ファンの期待する藤井風に答えてみせるという意思表明だろう。MVでも、生死の境をさまよったところから復活するようすが描かれている。

 

藤井風くんの「damn」の英語詞を解説してもらいました - なつめ食堂

 

 以降の英語歌詞は、こちらの方の解釈にくわしく掲載されている。個人的には、もう少し自暴自棄な意味合いが含まれているのではないか、と思う。「もうこうなったらやるしかねえや、踊れ踊れ」というような。もし、単純にリスナーへポジティブなメッセージを送るなら、「燃えよ」のように、藤井風はもっと直接的に表現するはずだ。

 

 愛していくこの先ずっと

 守ってく明日もずっと

    i love me, and i will keep him in a safest fairest happiest place baby

 

 「愛していく」「守ってく」はファンに対する愛情表現であると同時に、藤井風が彼本来の姿を大切にしてくという、自身の悩みに対する回答でもあると考えられる。アーティストとしての理想像と、自然体の自分、どちらも大切に生きていくというのが「damn」という楽曲で導き出した彼の生き方だと思う。

 

 この曲のタイトルでもある「damn」は「クソ」という意味もある。というかなんならMVの最後に「クソ」を踏んでいる。曲中に何度も「クソ」はリフレインするし、トイレで流そうとするし。ひねくれた解釈も多々あるこのエントリーだが、藤井風はこんなこと思うような人ではないよなぁ。

youtu.be

こんなに優しい青年です。

なのでこのエントリーは、個人的な妄想に過ぎません。以上

ライブに行く意味

 

 以前、岡田斗司夫という人物が

「音楽を聴くためにライブに行く人たちの気持ちがわからない。別にCDでよくない?」

 という感じの発言をしていた。まあ、確かに完成度の高い音楽を聴きたいのなら、アーティストが世に送り出した音源で十分かもしれないと、どこか腑に落ちないものの、おおむねそう納得していた。(岡田斗司夫に対する敵意はないです)

 

 しかし、今日その考えは変わった。ライブに行く意味とはなんだ。宇多田ヒカルの「Laughter in the Dark Tour 2018」をアマゾンプライムで見て思った。

 

アーティストとリスナー(ファン)の交流する場所

 

 今回書きたいのは、音楽やステージのクオリティの如何ではない(それも素晴らしかったけれど)。

 

 宇多田ヒカルがライブを開催したのは、2018年のLaughter in the Dark以前だと2010年の「WILD LIFE」が最後だった。つまり、アーティストとファンがリアルな空間で対面するのは、実に8年ぶりだったのだ。

 Laughter in the Darkの映像冒頭、会場の何とも言えない緊張感が、画面越しでも伝わってきた。客席のざわつき。自分の好きな人と8年ぶりに再会するなんて、実際の人間関係でもなかなか無い経験だと思う。

 

 そして曲が始まる。セットリスト一曲目は「あなた」。歌いだしの歌詞は、

 

 あなたのいない世界じゃ どんな願いも叶わないから

 

 続く「燃えさかる業火の谷間が」で、若干声の調子が乱れていた。「あなた」は、初めから終わりまで、本調子でのパフォーマンスではなかったと思う。一曲目は、誰だって緊張するはず。いくら宇多田ヒカルといえども。

 そして二曲目の「道」、「traveling」、「COLORS」が終わり、MCの時間。収録されている映像はツアーの最終日で、かつ宇多田ヒカルのデビュー20周年だった。

 

 以下、宇多田のMC。

 

 今日はデビュー20周年記念日なんですけど(拍手)恥ずかしい……。

 そんな日を、こんな風に過ごせて、本当は誕生日とか祝ってもらったり、主役みたいになるのは苦手なんだけど、こんな風に過ごせてうれしい。ありがとう。

 

 宇多田がそう言うと、拍手が起こる。鳴り続ける。30秒以上の間、拍手と「おめでとう」の声が響く。

 

 ライブでは、生の声が、音が聞こえる。それはアーティストとリスナー、双方にいえることだ。普段、僕たちはアーティストの音楽を、歌声を聞くことができるけど、アーティストに、生の声を伝えることはできない。アーティストは、自分の音楽を聴いてくれている人たちの表情を見ることができない。

 しかし、ライブという場において、リスナーはアーティストに、さまざまなリアクションを届けることができる。拍手とか、「ありがとう」とか、短い言葉だったり、言葉ですらないものではあるけれど。

 

曲の、詞がもつ意味が変わる

 

 音楽に限った話ではないけど、音楽は、聴く人によって捉え方が変わる。同じ人が同じ楽曲を聴いていても、聴いている人が置かれている立場や状況によって、捉え方は変化する。

 

 そしてそれは、音楽を作る人、演奏する人にとってもそうだろう。ある楽曲を作曲した時点での気持ちと、その曲を時間も場所も異なる地点で奏でる時とでは、楽曲に対する想い、捉え方は変化しているはずだ。

 

 Laughter in the Darkで演奏された最初の曲、「あなた」は、おそらく親の子に対する愛をテーマにした歌詞だが、前述した歌いだしの歌詞、「あなたのいない世界じゃ どんな願いも叶わないから」は、宇多田のファンに対するメッセージ、とも捉えることができると思う。

 

 そしてライブを締めくくる最後の曲は「Goodbye Happiness」。好きなアーティストに会えることはしあわせなことだ。またいつか会えることを願ってさようならしよう。

最果タヒ目当てでポチッた「ちくま」7月号の巻頭コラムが爺クサ過ぎたんだ。

 最果タヒTwitterでエッセイの宣伝をしていた。

 題は「わたしの暴力リテラシー」。おお、なんだか面白そう。掲載されている「ちくま」は電子版だと110円だそうなので、さっそく購入した。

 Kindleを起動。ダウンロードはすぐに終わったので、表紙をタップ。天気をモチーフにしたかわいいキャラのイラストをさっと味わい、目次へ。目当てにしていた最果タヒの掲載順はだいぶ後の方…。まあ、せっかくだし順番に読んでみよう。

 最初のコラムと、その見出しが現れる。

 

 「マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて」

 

 …おっと?

 なんかいきなり、おどろおどろしいタイトルが出てきた。思わず著者の名前を確認。「蓮實重彥」サン。…誰?というか、読めない。仕方なし、本文に目を移す。

 

 「そもそもが雑駁な装置にすぎないテレヴィジョンというものの視覚的メディアとしての役割はとうの昔に終わっているから…」

 

 なかなかの書き出し。堅苦しくてもったいぶった言い回しだらけの文体のおかげで、本を閉じそうになる…。

 いやいや。まだ読み始めて二、三行。これからどんどん面白くなるかもしれないじゃないか。そう自分を奮い立たせて、文字を追っていく。

 まず、はじめの数行はとにかくテレビの悪口。「わたしはこれまでもこれからも、テレビを侮蔑し続けるだろう」。この人はよっぽどテレビを目の敵にしているみたいだ。  

 テレビは視覚的メディアのようで、実は音声メディアなのだ。アレを見たらわかるだろ!とのこと。はあ。

 「映画とテレビの画面を比べてみると、違いは歴然。映画に、マイクなんて映りこんでない。画面からマイクを排除することが撮影の基本だ」。

 それなのに、テレビときたら。ピンマイクは映すわ、音声スタッフは映すわでまことにけしからん。そういえば、昔見た映画で、マイクがばっちり映りこんでたやつもあったな、ははは!

 多少文章は変えているが、こんな感じの内容が続く。実際の文章はさらにとっつきにくい。先述したタイトルや書き出しの文章の雰囲気を思い出してほしい。終始あの調子が続く。映画を観た当時のことを「東洋の島国の少年の目は、それ(マイクの映りこみ)を明らかな編集上のミスとして見とどけてしまったのだ」と振り返ってる。なんか、読んでて恥ずかしい。

 そこからアナウンサーがピンマイクを付けている話に。せっかく美しいお召し物をしているのに、不細工なマイクを付けているせいで台無しである。女性蔑視である、と。 台風中継で必死にマイクを握りしめている女性アナウンサーを見ていると、マイクが勃起したちん〇んのようではしたない。このくだりを読んだあたりで、ブログに書く内容を考え始めた。

 グルメリポートでは、大したことなさそうな料理に「ウマい!」としか言えないし、ファッション特集では「カワイイ」を連呼する女しかいない。語彙の乏しい国民には、語彙の乏しい某総理大臣がお似合いだ…いや、もうマイク関係ない。

 そして、「某番組では、某夫人の華麗すぎる衣装の襟元にも、小さなマイクが醜く揺れている」とニヒルに締めて終わった。

 

 うーん。

 えー…?笑

 

 なんというか、お年寄りの愚痴をずっと聞かされていた感覚。読み終わっても、ただただ苦笑いだった。

 こうして記事を書くために、コラムの内容を振り返ってみたからなんとなく著者の主張はわかるものの、読んだ当時は本当~に心に何も残らなかった。

 

 マイクが映像に映りこむことを全く意に介していない製作者。はたして、その映像は映像として価値のある情報を持っているのか?という問題提起だ(たぶん)。テレビ番組の多くは、何かしながら片手間でも、テレビの前にじっと座っていなくても内容を理解できるような造りになっている。しかし、それは映像メディアと呼べるのか。確かに、考えてみると面白そうな議題だ。

 でも、当のコラムを読んでいても、そのテーマまでたどり着けない。抽象的な例示や無駄な情報・脱線が多すぎて、何が言いたいのかわからない。そこに皮肉めいた語り口が合わさってまさに無敵。ちゃんと文章に向き合う気力が着々と削がれていく。

 

 気の利いた言い回しを考えようとする前に、まずは読者の顔を思い浮かべてみませんか。

 

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ゲーム実況に編集は必要なのか。

 先日、YouTubeで「大乱闘スマッシュブラザーズ」というゲームの動画を見た。大乱闘スマッシュブラザーズ、略して「スマブラ」は、任天堂より発売された対戦アクションゲームである。

 スマブラのプロが、インターネットを通じた対戦をしながらおしゃべりする、という内容で、いわゆる「ゲーム実況」と呼ばれる形式の動画だ。スマブラの上手なプレイを見たくて再生したのだが、僕は動画の視聴を途中でやめてしまった。

 「なんか見づらい」。それがリタイアの理由だった。非常に感覚的な理由だが、その見づらさには必ず原因があるはずだと思った。

 今回はその動画の見づらさの要因を探るなかで、YouTube上のゲーム実況における編集の在り方にも言及したい。

YouTuber的編集とゲーム実況

 編集を施されたゲーム実況の動画は、ニコニコ動画でゲーム実況が盛況を見せていた時代から当たり前に存在した。しかし、多くのゲーム実況者がYouTube上に活動拠点を移し、YouTubeでゲーム実況動画が多くの人に見られるようになった現在、かつてニコニコ動画では存在しなかったゲーム実況動画の編集スタイルが生まれた。YouTuberの動画編集スタイルが、ゲーム実況動画の編集形式に持ち込まれたのだ。

 YouTuberの用いる編集スタイルとは何か。「ヒカキン」や「はじめしゃちょー」などの動画を見ると分かるのだが、動画の間延びを生まないような非常に細かいカット編集や、大量の字幕やテロップ、頻繁に挿入される効果音などが代表的な例として挙げられる。

 ヒカキンにしろはじめしゃちょーにしろ、カメラの前に立つYouTuberは喋りのプロではなく、いわゆる素人だ。一般人がカメラを前に、一人きりで誰かのリアクションもない状態であれこれ話したとしても、それを視聴に耐えうる動画にすることはとても難しい。YouTuber的な編集は、喋りに発生する変な間や、視覚・聴覚で得られる情報の寂しさなどを解消するためのものだ。BGMや効果音の挿入により、動画全体のテンポを生み出すことも挙げられるだろう。

 一方のゲーム実況は、ゲームをプレイしながらリアクションをしたり、ツコッミを入れたり、攻略方法を考えたりする。ゲーム画面に向かってひたすらしゃべり続けなければいけないのだ。

 ゲームを遊びながら内容のあるトークをする。これらを同時に行うのは至難の技である。これもまた、視聴者が見て楽しいと思える動画を作るには熟練したスキルが不可欠だ。

 ゲーム実況にありがちなのは、ゲームのプレイで手いっぱいになり、喋りが疎かになってしまうこと。この配信者が黙ってしまっている時間を埋めるために、カットや鳴り物を多用するYouTuber的編集は有効のように思える。

 ヒカキンは、メインチャンネルとは別にゲーム配信専門のチャンネルを開設しており、そこにアップされているゲーム動画にも、彼のメインチャンネルの動画と同じようにYouTuber的な編集がばっちりなされている。

カメラに向かって喋ること、ゲーム画面に向かって喋ることの差

 僕が「見づらい」と感じた動画は、配信者がスマブラの生放送を行ったものを10分ほどの尺で切り出し、編集を加えた動画だ。配信者が話す言葉に字幕がつけられ、字幕と同時にそれを強調するための効果音も挿入される。また、生放送時に視聴者がしたコメントや、配信者とのネタのやりとりを理解するため、補足のテロップや画像も盛り込まれていた。字幕には、さまざまな色、字体が使用されていて、賑やかだった。

 というか、賑やか過ぎた。画面上の情報、耳に入る情報が過剰だったのだ。

 そもそも、YouTuber的な編集は、「素人がカメラ越しに一人きりで話す」という素材を加工するための手法だ。彼らが編集しなければいけない元の映像はTV番組のそれとは違って、複数のカメラによるさまざまな視点からの映像で生まれる絵的なメリハリや、演者やスタッフ、観覧席のお客さんの笑い声やリアクションはない。元の素材に含まれている視覚的・聴覚的情報は、その総量や起伏が圧倒的に乏しいのだ。

 そこに音やテロップをたくさんつけて、映像も加工して、目に入る情報を足す。BGM、カット編集の多用で起伏を生み出す。無味の素材に大量の添加物を投入して動画を成立させることがYouTuber的編集である。

 しかし、一方のゲーム実況には、作りこまれた映像、魅力的なBGM、操作の手ごたえを増す効果音やエフェクトがある。また、ストーリー進行、戦略をぶつけ合う対戦など、ゲームそれ自体が動画の展開を生むものである。ゲームというものは、それ単体で既に成立しているものなのだ。

 ゲーム実況では、そこに肉声を乗せる。生の人間の反応というのは、もともとゲームに備わっているものではない。が、YouTuber的編集によって足される音や字幕(文字)といった情報は、元からゲームが持っているものだ。過剰に付け足してしまうと、動画に含まれる情報が複雑で多すぎる。情報過多である。

 また、編集が与える影響は、扱うゲームによる差も大きいと感じた。例えばヒカキンが扱うタイトルは、「フォートナイト」や「マインクラフト」など、BGMや効果音が常に鳴り続けているわけではない。逆にスマブラは、対戦が盛り上がるBGM、打撃音が賑やかで、絵的にも技のエフェクトやキャラクターを追いかけるために頻繁に寄ったり引いたりするカメラワークなど、常に情報が映像に溢れている。

ゲーム実況に求められる編集

 ゲーム実況動画にYouTuber的な編集方法を上手く適用させている動画も多い。

 字幕に使用する色や字体は絞る。字幕と効果音の同時挿入は避ける。動画の展開を補足するテロップは、効果音と同時に挿入し目立たせる。肉声に効果音を被せる時は、効果音の音量を下げるなど。お笑いコンビ「霜降り明星」のYouTubeチャンネル「しもふりチューブ」で度々アップされているゲーム実況は、編集にこれらの工夫がみられた。

YouTube的な動画のスタイルを崩さず、見やすいゲーム実況として構成された例の一つだと思う。

 しかし、ヒカキンにしろスマブラにしろ霜降り明星にしろ、視聴者がゲームを目的に見に来ているのか、それともゲームをプレイしている演者を見に来ているのか、「演者」と「ゲーム」のそれぞれの見栄え、そのどちらをより重視するか、パワーバランスによって採用するべき編集の方向性は変わってくる点も、ゲーム実況の編集を考える上で避けては通れない問題だ。

 ヒカキンの動画がターゲットにしている年齢層は、彼の活動や扱うゲームタイトルを加味しても明らかに低い。彼の編集スタイルは若い世代に向けたものだ。

 僕が「見づらい」と最初に言ったスマブラの動画も、配信者はまだ10代だ。視聴者層も同じく10代の中高生がメインであり、20代前半の僕が単純に動画の編集について行けてないだけ、という可能性も十分あり得る。

 最後に、今回この記事を書くきっかけとなったスマブラのプロ「ザクレイ」の動画と、しもふりチューブのゲーム実況動画のURLを紹介して終わりにする。みなさんは、どのようなゲーム実況動画を見たいですか?

 

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