群体知能

一個体のささやかな主張

「君たちはどう生きるか」難解さ・賛否両論の要因

 私はこの記事を「君たちはどう生きるか」を2回観た後に書いている。1回目は公開初日、そして2度目はこの記事を公開した日に観た。

 1回目の鑑賞時は、この映画を観た多くの人と同じように、「これは一体どのような作品なのだろう」と頭を捻りながら席に座っていた。

 そもそも、映画でも、小説でも、全く前情報なしに作品と対峙した経験がある人など、どのくらいいるのだろうか。小説であれば背表紙にあらすじが書いてあるし、映画だって主演が誰かくらい知ったうえで観に行くはずだ。しかし、今回の「君たちはどう生きるか」に関しては、ほんとうのほんとうに、世界中のだれもが作品の情報をまったく持たずに丸腰で映画館に向かったのだ。現代においてこんな経験、空前絶後なのではないだろうか。

 君たちはどう生きるか」に対する感想に「よくわからなかった」が多いのは、当然のはずだ。なぜなら、われわれは物語の舞台も、あらすじも、主人公も、全くなにも知らずに映画を観た。映画の内容を把握するために不可欠な基本情報すら持たない状態で映画を観たのだ。

 「君たちはどう生きるか」で宮崎駿は何を語るのか?それに集中する前に、観客はまず登場人物や舞台設定などの基本的な情報を読み取らなければいけなかった。そのような状態で、制作者の意図の理解まで手が回るわけもない。

 しかし、何の前情報もなしに映画を鑑賞したわれわれに、未知の情報が洪水のように押し寄せてきた挙句、情報量が処理能力を超えて、何がなんだかわけがわからなくなってしまった。

 小説ならば自分のペースで読み進めることができるし、内容につまずいたら前のページに戻ることができる。しかし、映画はそうはいかない。巻き戻しもできない。

 つまり、繰り返しにはなるが、君たちはどう生きるか」が難解な理由。それは「全く前情報もなしに映画館へ行った」からだ。考えてみれば、当たり前のことである。

 

 本作の複雑な構成は意図的なものであると考えていたが、どうやらそうではないらしい。公開前情報を一切伏せたのはおそらくプロデューサー判断で、作品の特性と併せた「仕掛け」として、世に送り出そうとしたのだろう。この仕掛けが、本作の評価を分けた要因になっている。1度本作を鑑賞して「よくわからなかった」と感じた人は、ぜひもう一度劇場に足を運んでほしい。「君たちはどう生きるか」は、その価値がある素晴らしい映画だ。

 

 これは、きわめて王道のファンタジーである。

 

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 この映画を観たことを、忘れたくない。