群体知能

一個体のささやかな主張

最果タヒ目当てでポチッた「ちくま」7月号の巻頭コラムが爺クサ過ぎたんだ。

 最果タヒTwitterでエッセイの宣伝をしていた。

 題は「わたしの暴力リテラシー」。おお、なんだか面白そう。掲載されている「ちくま」は電子版だと110円だそうなので、さっそく購入した。

 Kindleを起動。ダウンロードはすぐに終わったので、表紙をタップ。天気をモチーフにしたかわいいキャラのイラストをさっと味わい、目次へ。目当てにしていた最果タヒの掲載順はだいぶ後の方…。まあ、せっかくだし順番に読んでみよう。

 最初のコラムと、その見出しが現れる。

 

 「マイクの醜さがテレビでは醜さとは認識されることのない東洋の不幸な島国にて」

 

 …おっと?

 なんかいきなり、おどろおどろしいタイトルが出てきた。思わず著者の名前を確認。「蓮實重彥」サン。…誰?というか、読めない。仕方なし、本文に目を移す。

 

 「そもそもが雑駁な装置にすぎないテレヴィジョンというものの視覚的メディアとしての役割はとうの昔に終わっているから…」

 

 なかなかの書き出し。堅苦しくてもったいぶった言い回しだらけの文体のおかげで、本を閉じそうになる…。

 いやいや。まだ読み始めて二、三行。これからどんどん面白くなるかもしれないじゃないか。そう自分を奮い立たせて、文字を追っていく。

 まず、はじめの数行はとにかくテレビの悪口。「わたしはこれまでもこれからも、テレビを侮蔑し続けるだろう」。この人はよっぽどテレビを目の敵にしているみたいだ。  

 テレビは視覚的メディアのようで、実は音声メディアなのだ。アレを見たらわかるだろ!とのこと。はあ。

 「映画とテレビの画面を比べてみると、違いは歴然。映画に、マイクなんて映りこんでない。画面からマイクを排除することが撮影の基本だ」。

 それなのに、テレビときたら。ピンマイクは映すわ、音声スタッフは映すわでまことにけしからん。そういえば、昔見た映画で、マイクがばっちり映りこんでたやつもあったな、ははは!

 多少文章は変えているが、こんな感じの内容が続く。実際の文章はさらにとっつきにくい。先述したタイトルや書き出しの文章の雰囲気を思い出してほしい。終始あの調子が続く。映画を観た当時のことを「東洋の島国の少年の目は、それ(マイクの映りこみ)を明らかな編集上のミスとして見とどけてしまったのだ」と振り返ってる。なんか、読んでて恥ずかしい。

 そこからアナウンサーがピンマイクを付けている話に。せっかく美しいお召し物をしているのに、不細工なマイクを付けているせいで台無しである。女性蔑視である、と。 台風中継で必死にマイクを握りしめている女性アナウンサーを見ていると、マイクが勃起したちん〇んのようではしたない。このくだりを読んだあたりで、ブログに書く内容を考え始めた。

 グルメリポートでは、大したことなさそうな料理に「ウマい!」としか言えないし、ファッション特集では「カワイイ」を連呼する女しかいない。語彙の乏しい国民には、語彙の乏しい某総理大臣がお似合いだ…いや、もうマイク関係ない。

 そして、「某番組では、某夫人の華麗すぎる衣装の襟元にも、小さなマイクが醜く揺れている」とニヒルに締めて終わった。

 

 うーん。

 えー…?笑

 

 なんというか、お年寄りの愚痴をずっと聞かされていた感覚。読み終わっても、ただただ苦笑いだった。

 こうして記事を書くために、コラムの内容を振り返ってみたからなんとなく著者の主張はわかるものの、読んだ当時は本当~に心に何も残らなかった。

 

 マイクが映像に映りこむことを全く意に介していない製作者。はたして、その映像は映像として価値のある情報を持っているのか?という問題提起だ(たぶん)。テレビ番組の多くは、何かしながら片手間でも、テレビの前にじっと座っていなくても内容を理解できるような造りになっている。しかし、それは映像メディアと呼べるのか。確かに、考えてみると面白そうな議題だ。

 でも、当のコラムを読んでいても、そのテーマまでたどり着けない。抽象的な例示や無駄な情報・脱線が多すぎて、何が言いたいのかわからない。そこに皮肉めいた語り口が合わさってまさに無敵。ちゃんと文章に向き合う気力が着々と削がれていく。

 

 気の利いた言い回しを考えようとする前に、まずは読者の顔を思い浮かべてみませんか。

 

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